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 昭和30年代に入って、学舎も相当に老朽化し、また福井県からの上京の学生数も激増したことにより、現状では到底その入舎要求には応えられなくなったため、昭和34年11月開催の理事会・評議委員会において対策を協議し、学舎増築計画の骨子が承認された。その後の計画の推移は下記の通りである。


     昭和36年 7月県議会において県費補助総額1,050万円議決(350万円×3年)
     昭和37年 7月 1日北栄造知事、同学舎建築の承認し、北知事と早川愼一輔仁会理事長との間に土地貸借契約(無償・20年間)が締結される。また、県からの明倫学舎建物の無償譲渡が決定。
     昭和37年11月 1日住宅金融公庫借入2,078万円(50年)が承認
     昭和38年 1月 1日文部省より「寄付行為変更認可書」受領
     昭和38年 1月19日総予算6,300万円をもって学舎建設に着手
     昭和38年 3月31日大蔵省告示第83号により指定寄附金認可
     昭和38年12月学舎完成
     昭和39年11月14日財団法人輔仁会の住所変更登記
〔旧〕東京都文京区金富町20番地
〔新〕東京都武蔵野市吉祥寺158番地
     昭和40年 2月在来の明倫学舎建物・付属物一切を廃棄撤去



*昭和38年、新学舎完成時の写真。写真をクリックすると写真と説明が表示されます。

 以上のような経過を辿り、昭和40年4月17日に新学舎竣工式が挙行された。石田和外氏(当時最高裁判事。昭和44年1月には最高裁第5代長官就任)が、早川理事長ならびに品川主計評議員会長(元読売巨人軍球団社長)の懇請により、あらたに輔仁会理事長に就任された 。また、藤村脩氏(輔仁会理事)が、奨学育英基金として3,000万円を寄付された(藤村氏は後にさらに500万円を寄付された)。ここに、名実ともに装いを新たにして財団法人輔仁会・明倫学舎は再発足し、爾来多数の郷土出身学生の奨学育英に貢献して現在に至っている 。(注釈7)。
 なお石田和外氏は昭和54年5月に急逝されたので、後任として、松平慶民子爵の子息である松平永芳氏(当時靖國神社六代宮司)が就任された。

    

注釈6.石田氏が理事長に就任されたときの経緯については、当時の輔仁会理事のひとりである坂井一位氏が『石田和外追想集』に寄せた手記に書かれている。
注釈7.現存しているこの時期前後の輔仁会役員名簿を見ると、先述の福田耕氏、福田一氏、加賀山之雄氏らに加えて、植木庚子郎氏や熊谷太三郎氏ら福井県選出の衆参議員各氏、元海軍大将の長谷川清氏、税制調査会会長の小倉武一氏、経済史学者の高橋幸八郎氏、心臓外科医の榊原仟氏、日経連専務理事の松崎芳伸氏、主婦連合会会長の奥むめお女史らも、理事・評議員・顧問として名を連ねている。なおこのうち高橋氏は、舎監を務められていたこともある。



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