旭社会教育会ほか発刊の『わたしたちの大先輩 文人市長永井環』(一九七三)には、後に福井市長となる永井が、当時、設立されたばかりの輔仁会の援助で東京帝国大学へと進学するくだりが描かれている。なお、石川県下の越前七群と滋賀県下の嶺南四郡が合併して、福井に県庁を置く現在のような福井県が誕生したのは、輔仁会発足の前年、明治十四年二月七日である。
養父母に頼んで、かろうじて、中学校に通っていた永井環が、どうして、かなりの費用のかかる東京遊学が出来たのであろうか。
これは、先にもふれたように、明治十五年東京在住の村田氏寿を中心とする福井県出身者が、向学心に燃える郷土の学生に対して、学費を補助し、福井県を立派にしょうではないかということから、輔仁会を設立し、福井中学校に対して、優秀な学生を推せんしてほしいと言って来たのである。こうして、日頃から、成續抜群、努力家であった永井環と竹内外雄がその第一回給費生に選ばれたのである。
今や、十九歳に成長した青年永井環にとって、もはや福井の土地は狭い。天下の秀才の雲集する東京に出て、根限り勉強したい希望が大きくなっていたにちがいない。しかし養父母に迷惑をかけている身、とても上京など言い出せるはずがない。それでも、永井環は前途の光明を見失なわず、屈せず、竹内外雄と勉学の競争に、しのぎを削っていたのである。『天は自ら助くるものを助く』という格言は、この永井環のために用意されたのではないだろうか。学費生活全額を補助してくれる輔仁会第一回給費生に環は見事選ばれたのである。その大成を信じ励ました養父熊之介も、心から喜び、環も又、新たな人生の大海に乗り出す夢に胸おどるのであった。
共立学校〔現在の開成高校〕は東京の神田にあった。全国から、いわゆる天下の秀才が、日本ただ一つの大学である東京帝国大学入学を目ざす、今日の予備校であった。輔仁会は、永井環、竹内外雄にこの予備校に入学することをきめ、指定の宿舎(現明倫学舎)から通学させたのであった。生活費と学費の一切を輔仁会が負担したわけだが、相当の金額になるわけである。それだけ、郷里の期待を一身に受けていたわけでもある。
永井環たちの教育主任は、東京帝国大学教授兼上野図書館長である山岡次郎先生であった。山岡先生は福井出身の科学者であった。共立学校に入学するには、地方中学出の環にとって、語学の力が不足していた。山岡先生は公務多忙にもかかわらず、一週間に二晩、直接スチュワード物理学を通じて、語学の指導をされたので、ようやく環は共立学校の編入試験に合格することが出来た。環は、先生のあたたかい指導とご恩を深く心に刻んだのであつた。
明治十六年六月、共立学校一級生となった永井環は、大森房吉らと共に、東京帝国大学予備門(第一高等学校――現東京大学)入学の試験を受け、平均点七一・六の好成績をもって見事合格し、輔仁会の期待にこたえたのであった。
以上、旭社会教育会ほか『わたしたちの大先輩 文人市長 永井環』(1973)より
※当資料の収集にあたっては、福井市旭公民館職員の方々のご協力を得ることができた(平成十六年二月)。記して感謝を申し上げたい。
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