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福井県出身で、二・二六事件(昭和十一)当時の首相であった岡田啓介は、旧制中学卒業後、立身出世を志して上京し、輔仁会の学舎に寄宿した。その折の様子が、彼の回顧録に描かれている。

 中学を終えてから、県出身者の教育機関であった輔仁舎の貸費生になろうと思って願書を出した。おじの青山貞が輔仁舎の役員をしていたが、そんなことをしなくてもおれが学費を出してやるから東京へこいといわれたので、いっしょに上京したいというものを仲間にいれ、わたしの子供のときの下男で、その後わたしの家の馬小屋を建て直したところに住んで家の世話をしている男を宰領にして、〔明治〕十八年一月、おりからの雪の中、福井を出た。



 東京までの道順は、そのころたいへんだった。汽車は敦賀まで出なければなかったので、歩いて三日目に敦賀に着き、汽車で大垣へゆき、大垣から小船で揖斐川を桑名へ下り、それから人力車で四日市へ出て、四日市から船に乗って横浜に向かった。船体の外側に大きな水かきのついている船(外輪船)だった。横浜から汽車で東京に着いた。
 当時、おじは司法省三等出仕兼法務局長、馬車を持っていたから相当な地位だったんだろう。大名屋敷にはいっていた。わたしが着いた夜、おじの家に客があった。その席へこいと引っ張り出され、「貴様、何になるつもりで東京に出てきたか」というので、わたしは「太政大臣(当時の総理大臣)になるつもりです」と答えたら、みなが大いに笑って、西洋の諺に、ポリティシャン(政治家)になろうとしてポリース(巡査)になる、ということがあるが、まあその類だと冷やかされたものだ。
 わたしは神田三崎町の輔仁舎に下宿して、なんとなしに、みながはいっている駿河台の共立学校に入学した。当時の英語の先生は高橋是清さんだったと思う。
 どうも、おじとはいいながら、他人に学資をもらうのは心苦しい、自分でしまつをしようと考えて、官立の学校を捜していた。ところが三崎町の輔仁舎から見ると偕行社が前面に見える、ここで毎晩、あかりをがんがんともして宴会をしている。陸軍というものはよほどよいものと思って、これはひとつ陸軍にはいってやろう、と心を決めた。そこで共立学校を飛び出し、本郷にあった陸軍有斐学校……これは陸軍にはいる予備学校のようなものだが、そこへはいった。なんでも漢学を学ばねばならぬというので、小石川の松平邸内で行われた笹川という先生の講義を聴きにいった。一方有斐学校ではドイツ語を習った。
 七月はじめ士官学校の生徒募集があったので、わたしは願書をつくって従兄の青山元に保証人になってもらうため、そこへたのみにいくと、青山の親類に当たる海軍大尉の三上三郎という人がいた。その人が、わたしの願書を見て、「なんだ貴様、陸軍にはいるとはなにごとか、君のおじさんの青山悌二郎は、黒龍丸に乗っていて長崎でコロリ(コレラのこと)で死んだが、いま生きておれば海軍の相当な人だ、おじさんのようになれ」という。それで、「どうすればいいんですか」といったら親切に手続きを教えてくれた。そこで兵学校に願書を出したんだが、実は大いにまごついた。陸軍にはいろうと思ったからドイツ語や漢学を習っておいたが、こんどは海軍になってしまったのでやりなおしだ。小川町の私塾で英語を教えるところがあったから、そこへ通った。
 夏の月のいい晩、輔仁舎の寄宿舎で、笠原という友達と勉強していたら、庭のすももの木にいっぱいついている実が二人を誘惑する。頂戴しようではないかというので、かごを持って忍び入り、わたしが木に登って、実をもいで落とすと笠原は下で受ける役、盛んにやっている最中に谷口という先生が庭に出てきた。満月だったし、どうにも動きがとれないので、木の一方にべったりくっついていた。笠原は木の根元にちぢこまっている。先生は家へはいったので、やっと下へおりて、すももを二人で食べた。あくる日になって谷口家へ呼ばれ、「きょうはすももを取ったから」と盆に盛って差し出された……。谷口先生はわたしらの行いをすっかり知っておられたらしい。
 こうして海軍兵学校へ入学したのは、明治十八年十二月一日のことだった。

岡田啓介著・岡田良寛編『岡田啓介回顧録』より



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