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入舎当時は稲村といふ先生が舎監であつたが、半年程で平泉先生に交替された。その頃平泉先生は三十一、二才ではなかつたかと思ふ。
白哲高貴な容相、透き通る様な音声、背筋の延びた威厳。処が、我々書生に対して洵に丁寧な言葉で応対される。従つて心安だての話しかけが出来難くかつた。
朝夕は必ずお子さん――洸先生――を抱いて巡視され、摺れ違ひざまの挨拶に、「やあー失敬」と答へられるのが口癖の様であつた。
ある講話の時、東照宮造営に就いての研究が披露され、僅か三年で完成したとの事で、吃驚させられたものである。先生はあれで博士号を得られたのだと後で聞いた。
当時は頻々と名士が訪塾され、お話しを聞かされたものである。後の首相岡田大将、その秘書官をされた福田耕国際電々社長、沖縄で最期を遂げられた島田剛大郎知事・紀平東大教授等々であつて、我々には後々までも心に残る出会ひを与へられた。
前記福田さんのごときは、書生共を自宅にまで呼び寄せ、御馳走を交へながらの人生訓をされたものである。
集まり、また散ずる当時の学生共の顔振れは、所謂六学をはじめとし、高商・高工・高師・水産講習所・高等商船・物理学校・英数学館・予備校等、種々雑多な学校に籍を置き、勉強する者もあり、せざるもあり、学校へも行かず日がな一日閉ぢ籠るあり、右派あり左派ありノンプロありといふ按梅であつた。だからと云つて議論はあつたが喧嘩になつたことはない。
平泉先生は一切干渉がましきことはされず、大腹中に納められてゐた様に思ふ。後のあの正厳な指導者ぶりは発揮されてゐない。賄ひ方が悪いといつて、彼等一家を追放し、手伝ひ女中と与作といふ小僧を残し、自治炊事に切り替へる騒動にも、一言の容喙もされなかつた。
当時末輩の私が、舎費――月額二十五円程――徴集と献立表の作製当番を、暫く押し付けられたことがあつた。これは半年交替で選び出された。半年交替と云へば、各自の居室も半年毎に南北上下の交替があつた。これは籤引きで相客 の顔も変るといふ次第、普通の交際では捉へられない人間の種々相を知るに、与つて力あつた様に息はれる。
一度かういふ事があつた。大正十四年春の卒業生送別コンパの時である。スキ焼会だが、私が当番役であつたので、今日ぐらゐはよからうと考へ、不断は出さない酒を薬缶に用意して、一同の茶椀に注いでまはつた。無論、先生の前にも注いでおいた。さあ始めようと一斉に取り上げたら、喚声の中で先生だけは苦い顔になつて下におろし、誰の悪戯かとの仰せであつた。私ですと答へると、苦笑ひであつたがお叱りはなかった。
その頃の学生を今思ひ起すと、有名無名、出入通算五十名程もゐた様である。
中で特筆すべきは、元衆院議長福田一氏であらう。彼はいつも碁ばかり打つて、勉学らしきことをする姿を見たことがない。学校の講義を聞くだけで用が足りてゐたのであらう。後年シンガポールで、同盟通信支局次長としての彼に偶々再会し、尓後通産相時代には商売上の応援にも浴した。豪腹実直な人である。
左翼作家として一風をなした中野重治氏も一時在塾した。他の塾生とは殆んど口も利かない孤高性のある人物であつた。前髪を垂らした暗い男だつた。独逸語の絵入り猥本を秘かに熱読してゐた。
今一人左翼作家として森松某がゐた。彼は福井中学の鬼生徒監森松先生の子息である。かの先生にして此の子ありとはの感が深い。
彼等塾生卒業の頃は、山本条太郎満鉄総裁在任中で、多勢が満洲に渡つた。満鉄に満洲国に、或いは在宅の諸職場に散つて行った。かの地で逢つた人達も何人かゐた。しかし敗戦を期として消息を知らない。それ等の中に、本多静・小幡信次・松原文雄・松村兼二諸氏の名が記憶に残る。
本多氏は昭和九年頃、満鉄吉林事務所長の位地にあり、私が新京都市建設に参じた間のある日往訪すると、名物のスッポン料理を供され、締仁会時代の話やら、平泉先生の事どもの話題で花が咲き、旧交を温めるといふことがあつた。
先生との親炙は、私が輔仁会を出て以来、今上陛下の御大典よりの御帰還を東京駅前広場でお迎へした際、路上で偶然お逢ひしたあと、廿年間途絶えた。
戦ひ敗れて昭南より引揚げ、広島に店開きをし、どうやら軌道に乗りはじめた廿八年頃のことだ。有志相集まり、河畔会なる懇談の場ができた。そこで時世を憂ふる者共の中から、平泉先生の講話が聞きたいとの声が上つた。私は招待役を引受け、先生の御動座を願つて叶へられた。広島大学外二、三ヶ所での講演で、宣伝したわけでもないのに相当の聴衆があり、感銘を残した。
一夜の御泊りを自宅で供し、家族への訓話は今も話しの種となつてゐる。その御縁で二人の息子は、東京と大阪の青々塾に入れて戴く幸運にめぐまれた。
お泊りの時に賜はつた色紙
廿年を隔てて更に変らざる
友の情にこよひ酔ひぬる
であつた。
此れを機として、広島には以後二、三回巡講を頂戴できた。のみならず若き店員達を千早の道場で鍛錬して戴く光栄にも浴した。
いつの御来店の時であつたか忘れたが、佐久良先生直筆の短冊、それも軸仕立てになつたのを頂戴し、今も秘蔵してゐる。激しい性格にしては優しい女文字の様で、意外な思ひをしたことである。
これ等凡ては、輸仁会にはじまる深い因縁であった。
先生は既に幽冥のかなたにあるも、その余沢は深く地中に沈潜し、多くの若者の心に秘流し、時と共に所々に清水として溢れでることであらう。
※吉田氏は平成十五年にご逝去されたが、今回の転載にあたっては、吉田氏のご息女である調子様・日浦様、ならびに発行元の日本学協会から、許可をいただくことができた。また、この手記の出典調査に際しては、吉田氏のご友人である金子様、ならびに日本学協会職員の方から、多大なご協力をたまわった。以上、記して感謝を申し上げたい。
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