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福井県出身の作家・中野重治は、大正十三年(一九二四)4月に東京帝国大学に入学した。彼はその自伝的小説『むらぎも』(一九五四)のなかで、輔仁会学舎のことと思われる「若越義塾」という学生寮と、当時輔仁会学舎の舎監であり、のちに東大教授となって皇国史観を主導する平泉澄氏とおぼしき「泉」という塾監に対する、強い反発の混じった複雑な感情を、社会主義思想に傾倒した「片口安吉」という、中野本人であろう主人公の青年を通して、プロレタリア文学運動の代表者らしい観点で描いている。

 そのとき安吉はまだ小石川金富町に住んでいた。伝通院前を江戸川大曲の方へだらだらと下りて行ったところ、そこに金富町があって、電車通りからちょっとはいったところに、田舎町の登記所みたような建物で立っているのがかれらの若越義塾だった。大学入学で東京へきた最初、安吉は駒込神明町で酒屋の二階に下宿していた。従兄弟にあたる青年が兄弟二人でそこで酒屋をしていたからだった。安吉はそこで、本郷界隈の風俗にいくらか親しむことができた。やがて酒屋は本所緑町へひっこして行った。安吉もついて行った。そこで安吉は、大地震で焼きはらわれたあとの本所風俗、あおいものの一本もない、鉛いろの空の下での、夏場赤痢がはやってくるとどっと安くなった鮪を食う本所風俗にいくらか親しむことができた。まもなく兄の方が嫁をもらうことになった。田端の鶴来たちのところで夜ふかしして、泊まれというのに無理に帰る時なんぞは歩くのに遠すぎるということがそこに出てきた。安吉は新しい下宿をさがしたがなかなか見つからない。彼は父親から月々四十円送られていて、大学生としてひどく貧しくはなかったが、下宿屋を探すとなるとそれでは話にならなかった。そのうちに従兄に嫁がきてしまった。せっぱつまって彼は若越義塾にあたってみた。とても行くまいと思っていたのが案外にすらすらと運んだ。本郷へも遠くない。歩いて十分行ける……

 その便利な位置がしかし不便な位置でもあった。清水町合宿での研究会へ時聞かつかつに馳けつけるときなど、道をいくら急いでも市電を使うことができない。谷中清水町と江戸川大曲とを結ぶ線にたいして、市電の線は、神明町から上野山下へくるのにしろ、駒込橋から神田方面へ行くのにしろ、巣鴨から春日町を通って行くのにしろ、どれも斜めに交っていた。たった一つ、本郷三丁目から伝通院を通って大塚へ走る線があり、これだけは方向に沿っているといえなくはなかったが、コース全体から見ればやはり話にならなかった。方向としてコースに沿っていても、コースそのものからはかなりに離れて、短い切れっぱしとしてそこにあるというまでだった。



現在の伝通院(平成16年2月撮影)

電車のこの路線関係は、あいまいな気分といった形で、人生そのものの路線関係図といったものを安吉に暗示することがあった。小学から中学へという具合に、貧乏な子供にも教育を受けて行く道があることはある。仕事から仕事へと求めて行って、生活の幸福をつかむ仕組みが法律的にもできていることはいる。男と女とがめぐり合って、恋がうまれ、結婚生活がうまれ、子供ができ孫ができしていい老年期が迎えられる路線もできていないことはない。そしてすべて人がきてそれを利用するのに任されているけれども、それでもやはり、そのどれをも利用しようにも利用しようのない生活の区域、人間の条件・状態というのがあるものだ。人が同情してみたところで、さしあたって見殺しにするほかはない。それも本人のせいでは決してないのだ。谷中清水町と伝通院金富町とを結ぶコースがちょうどそれだった。しかしそれよりも、むろん、方向ちがいの電車を二つも三つも乗りかえて、さほどでもない距離を、ともかく脚でなく辿りつくなぞは安吉のからだの元気が我慢しなかった。安吉は歩いてかよった。伝通院の正面中門にむかった幅のひろい坂をのぼり、寺院の塀についてうねうねと細い坂を曲がってくだり、八千代町、戸崎町の貧民街窪地へ降りて行き、何とかいう小寺の境内をいくらか無法な感じで通りぬけ、そのへんで見当をつけて、丸山町へんの屋敷町高台へ出る急な坂のどれか一つをのぼり、追分の通りへ出て、それから大学と第一高等学校とのあわいの急な坂をどんどん下りて行って藍染橋の交番のところに出、電車みちを踏みこして今度は善光寺坂のひろい敷石道をとっとっとのぼって行く。真冬でも汗になってくるこのコースを歩くことは、安吉には肉体的な楽しみでもあった。
 一つには、塾の生活そのものが気に食わなかった。それが気にくわぬため、そこから出かける揚合、安吉は塾の門を後足でけとばすような調子で出かけていった。どこかから帰ってくる場合は、敵地に乗りこむような気組みで帰ってきた。安吉は、そういう塾が方々にいまだに残っているのを知っている。ずっとむかし、四国松山藩の塾があって内藤鳴雪が舎監のようなことをしていただろう。そこへ子規がはいってきて、この乱暴な大学生がさかんに乱暴をはたらいでそれを鳴雪が大目に見ていたということがあったはずだ。伝通院の裏の方には、現に大きな石川県関係の学生塾があった。こういう塾は、それぞれの県との関係でできていたが、成立そのほかの事情は安吉にわかっていない。県の育英会というようなところに関係があるのかも知れない。しかし安吉には、どうやら、もとの藩との関係が切れていないらしいことがいやなこととして映ってくる。そうでないかも知れぬことについて、そうだと考えて憎まずにいられぬようなものが現に若越義塾にも生きてあるのだった。
 この殺風景な建物では、二階建二棟を廊下でつないで、それが福井県出身の専門学校、大学などの学生の部屋になっていた。彼らは一部屋に二人ずつ住んでいた。それにつづいて食堂があり、食堂の前が応接間と玄関、その二階が大広間になって、食堂の横には台所と賄人の部屋とがくっついていた。台所の端からは細い渡り廊下が出ている。それを渡ったところに、塾の監督の泉文学博士の家が住宅建築として建っていた。むろん渡り廊下は泉家の勝手口へつづいていて、その家の玄関は、別に塾の玄関と直角をなす方向にできていた。門をはいってまっ直ぐに歩けば塾の正面玄関にくる。門をはいって右へ行けば泉教授宅の玄関にかかる。安吉は、どんな因縁で泉教授がここの監督として、もしかしたら家賃が要らぬのかも知れぬこの住宅に住んでいるのか知らなかった。泉博士の学問上の業績も彼は知らなかった。安吉にしても、泉教授にたいする自分の気持ちを十分道理のあるものとは頭で考えなかった。それでも彼は、心持ちのどこかでは、彼の泉憎悪を筋の通ったものとして認めていた。
 一種の初歩的な自治制が塾の学生たちにあったが、安吉がここへはいるのを許したのは最後的には泉教授であって、その点で安吉は恩だけが泉にあるのだった。何でそれを憎むのか? それはちょっちょっとしたことからにすぎなかった。いつか泉は、大広間での集まりで学生の思想的動きにふれて感想のようなことを述べた。彼は、かしこく立ちまわってだったろう、学生の動きそのものにはほとんど触れないで、かえって労働者の紛争のことを持ちだしていた。彼は新潟鉄工所のストライキを材料にして語った。そこで紛争が生じた。そこの会社にいる某という泉の知合いが、太っぱらな工作をして労資双方のがわを満足させた。安吉は、新潟鉄工所を名前以外には知らなかった。それでも彼は腹をたてた。彼には、その仲介役をつとめたという男が悪党に見えた。労資双方のがわが満足した? そこには、無力、無知、無経験、むかしからの重なり重なった習わしに完全にしばられている状態などからくる労働者がわの無残な泣き寝入りだけが彼に感じられたのだった。
 泉は日本中世史を専門にしていた。塾の応接間に文庫があって、そこの棚に泉の著書が二冊はいっている。一つは「建武の中興」をあつかったもの、一つは日本の皇室と寺社との関係を山崎闇斎をつかって結びつけたものだった。安吉はそれを拾いよみしたことがあるが、彼には学問上の正否はわからなかった。それを判断する何の規準も歴史知識も彼にはなかったから。しかし彼は、泉博士を学問上ゆるしてはならぬ人物のようにただ感じてきた。安吉の気持ちでは――それは考えといえるほどのものではまだなかった。――学者が、「建武の中興」を、それを是認する立場で扱うことはそれだけで学問上の冒?と思われた。日本の皇室と日本の寺社との親近関係も、それをめでたいこととして扱うかぎりそれは人間的に許されぬものであるはずだった。
 これは、安吉が大学生たちの社会科学運動にひかれ、新人会の活動にひかれてきたこととは、少なくとも安吉の心のなかでは全く無関係だった。今でも安吉は、県とこの塾との基本関係を知らなかったが、まして元の福井藩ないし今伯爵になって生きている松平なにがしとの関係にそれがあるかないかさえ知らなかった。しかし泉は、いつやら松平を松平さんと呼んでいた。そのうえ泉は、それを泉個人の心情の問題からはずして、ここで寝泊まりしている安吉たち学生にも採用させようとする調子で発音していた。村の小学校を出て福井市の中学校へ行ったとき、安吉は、福井の中学生が松平をマッタイラさんと呼ぶのをきいておかしな気になったことがあった。まもなく安吉は、松平は福井市に住んでもいたのだから、市の住民お互いとしての感情と、むかしの領主・領民関係のなごりとが重なってそうなったのだろうということを子供ながらに納得した。そしてそれが、安吉たちの村生活とどうしても確かに違っているのだった。

 以上、中野重治『むらぎも』より



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