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「戦災で焼ける前は、あの場所は福井県人会の学生寮が建っていました。戦災後は焼け野原のままでした。新しく建物が建つ前に、交渉しようということで、管理者に話しにいきました。
管理者は日本橋におり、五、六回以上も足をはこびました。
交渉はなかなかうまくいきませんでしたが、学校のことならということで、売ってくれることになりました。
値段は、一坪(約3.3u)で四〇〇円、約六〇〇坪でしたので、約二十四万円でした。
今の第二校庭の入口階段、砂場のあたり約五〇坪は、本郷の医療機械商の持ち物で、当時倉庫が建っていました。何回も足をはこんで、『また、あの人がきましたよ。』といわれたこともありましたが、教育のためという誠意が通じ、売ってもらうことができました。
お寺の所も売ってもらえるというところまでは、話が進んだのですが、お墓一基につき移転料五千円で、お墓が三〇〇ほどあったので、総額百五十万円ということであった。これではいかんせん、どうしようもありませんでした。」
当時文京区としても財政困難な時代で、このために十万円の子算を取るのがやっとであった。
不足分十五万円は、後援会を中心にして寄付等により、やっと現在の第二校庭が得られたわけである。
その後、職員、児童、後援会の人たちで、力を合わせて整地をし、〔昭和二十三年〕十一月三日に竣工記念祝賀大運動会が盛大に挙行され、子どもや先生、父母の方々がとてもよろこばれたということである。
その後も体育の時間のはじめに一石ひろいをしてから、授業をはじめた。(門前さんの話)のようにして、だんだん整備されてきた。
昭和三十九年に第二校庭東端にプールが出来上がった。
昭和四十三年校庭のまわりの金あみが設置され、舗装もされた。
そして、昭和四十五年には防球網もできて現在にいたっている。
※当資料の収集にあたっては、金富小学校の内山教頭先生のご協力を得ることができた(平成十六年三月)。記して感謝を申し上げたい。
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